価値形態の統一性と経済性への危惧

(本当はこの記事をすぐに書くつもりだったので、「メディア」を更新する形で記事を載せようと思っていたんですが、長くなり過ぎて存外時間がかかってしまったため、「メディア」の更新としてではなくて、新しい記事としてアップすることにしました。)

承前

僕はこれに関して、人間の価値形態の統一性と経済性についての問題を危惧せざるを得ません。簡単に言ってしまえば、人間っぽさの欠落です。

たとえばおいしいものを食べることが目的である場合、おいしいお店に行ったり、家で料理をしたり、食材を勉強してみたりと、金だけではまかなえない部分──キノコを採りに行くとか、パスタのゆでかげんに神経を注ぐとかいう<手間>の部分──があります。ところが、おいしいお店に行くこと自体が目的化すると、あるいはもっとひどければ外で食べること自体が目的化すると、おいしいお店を探すとか実際にそのお店に足を運ぶといった手間はありますが、基本的にすべてお金でまかなえる行動になります。もちろんグルメな人で、それを生き甲斐にしてる人もいますが、本当にそのことを生き甲斐にしてる人はそのことに一般的な人とは違う<手間>を必ずかけています。重要なのは、お金のかかる消費活動になっているということではなく、お金だけしかかからない(かけない)消費活動になっていることと、行動自体が非常に機械的な単調なものになっているところです。注目して欲しいのが、<手間>あるいは<幅>の部分を、金が媒介して単純化させているという構造です。これが何故危険なのか。

個人個人が本当に望むもの、あるいは継続的に望むものが金だけでまかなえるなら、人間は基本的に経済活動以外をする必要がありません。先の例で言えば、本当に外食ばかりの生活で満足できるなら、その人にとっては、食生活に関しての<手間>や<幅>の部分や、食事における他の楽しみ──家族との団らんや、たまにあるからこその友人との濃密な時間──の部分が抜け落ちます(僕の経験上、外食というのはプライベート空間でないためか、回数が無駄に多くなると新鮮さや特別さが希薄化して、本当に濃密な団らんや、更に行けば快適な時間でさえなくなります)。僕がどういった層の人間を言っているのかは想像してもらいたいのですが、ようするに「食(事)」に多くのことを求めません。そして必要なのはお金と、ダラダラとつきあう仲間だけです。裏を返せば、金とそういったつきあいだけは必要です。

今言ったのは食事に関しての例ですが、こういったことは他のたくさんの場面でも起きています。たとえば恋愛で、「本当に分かり合える人なら一人だっていい、その人にしか好かれなくていい、その人だけ愛せればいい」と思っていたとしても、たくさんの女にモテる(ストックしてる、ヤってる)やつの方がいいという価値基準しかその周辺の人々に共有されないと(そういったことしか望まない人ばかりになると)、自分がいくらそう思っていても、もうそういうふうにはできないわけです(何故なら恋愛では「相手」も必要(「承認されること」が必要)だからです)。他にも、人間関係でもそうだし、もっと言ってしまえば生き方そのものにさえもこういった現象が影を落としています。つまり個々の価値基準でオリジナルにいろいろなものの価値をはかっていたのが、段々その価値基準が個人の内部から外部のイメジへと移り変わり、個人個人が主体的にものごとを判断したり選択したりしなくなっているということです。うーん、ここが難しいんですが、本人は主体性があるつもりなのですが見る人が見ると主体性がないというか、安易というか、機械的に見えるというか、陳腐なもので満足しているように見えます。もっと切り込んだ言い方をすれば、思考をともなっていない行動と捉えることができる、ということです。これが全体あるいは大規模で起きると(まぁ実際に起きてるわけですが)、こういったすごく一辺倒な価値形態(イメジ)が支配的になり、イメジばかりが先行した、本当の欲求が満たされないような機械的な希薄なせかいがアタリマエになり、そういうせかいに言い得ぬ違和感を感じる人やそんなことくだらないと思う人も有無を言わさずそういった波に飲み込まれていく現状があります。そうやってある一つの指標やイメジに傾倒していくのはとても危険なことなのです。

本来、食事の場合に限らず、「偶然性」や「唯一性」、あるいは<手間>といった部分(濃密さ)──金とは違う指標(価値形態)、個人が内部に持つ指標で量られる部分──を望むから(先の例で言えば、家族との食事における団らんや、たまにあるからこその友人との濃密な時間を本気で希求するから)そこに多様性diversityやcomplexity(生きがいと思えるような時間)が生まれるのに、それらを望まない、あるいはそういった陳腐なもので満足してしまうため、全体的に希薄な、記号的なせかいになるわけです。ある意味濃密さを知らないのだから、かわいそうといえばかわいそうなのですが、そこに本来多数派でなければならない濃密さを知る人々(本来はこっちが普通)も巻き込まれる、それも少数派(弱者)として押しやられるところに悲劇性と不条理があります。

もう少しつっこんだ言い方をすれば、価値形態の統一性への危惧とは、都合のいい一つの価値形態でこれが良いとされることを強要される世界への危惧です。先進国は資本主義の性質からいって大量消費社会になっていますが、大量消費には二種類あります。一つは食料などの生活必需品が大量生産され大量消費される状態。もう一つは、生活には直接的に関係のない、もっぱら経済的な理由により大量生産され大量消費されるポータブル音楽プレイヤーなどの状態です。今前者の必須である消費を<生活的消費>、後者の自由な消費を<思想的消費>とすると、<思想的消費>の場合、純粋な必要欲求だけではなくある種のイメジ(幻影)──思想を成り立たせる(形成する)基盤──がないと成り立ちません。つまりメディアによる価値観の擦り込みなどが必要になってきます。これが一過性の単発的なものなら問題ないのですが、こういったシステムの中では次第にそういった宣伝なしである統一的な価値観がメディアや階級意識(≒階級闘争)によって生まれてきます。僕はこういった世界に筆舌に尽くしがたい強迫観念的な恐怖感があるわけです。つまり、この自由であるはずの<思想的消費>が実質的に「自由」でなくなるわけです。すなわち「選択的」になるわけです。

これらのことは多少危険な言い方をすれば文化的・経済的に高いレベルにない人達が力を持ち始めているということです。そしてこれらは連鎖的に起きています。しかし、これらは『ハマータウンの野郎ども』で書かれているように、階級的なものを再生産するように機能している、換言すれば日本にも階級ができはじめているということかもしれないということです(ちなみに僕は『ハマータウンの野郎ども』を読んだことはありません)。もしそうなら、力を持っているというのはあくまでその階級の中での話で、社会的に見たら決して力を持っていない(上位にいない)という可能性があります。これは何を表しているかというと、「階級」というものが閉鎖的(排他的、敵対的)であり、容易に上下はしないということです。これは経済性への危惧にも繋がります。

経済性への危惧とは、<価値形態の統一性>が金を一つの媒介(軸)として起こっているということです。上記のような機械的な世界(特定の人にとってものすごく<生きづらい世界>)で評価されるためには何故か金が必要という場合が多くなります(あるいは反規範的(?))。つまりこれが、上の『ハマータウンの野郎ども』で提示された階級(労働階級)を再生産する構図そのものです。せまい範囲の世界(地域的に狭いという意味ではなく、質的に深くない・視野的にせまいという意味)で、せいぜいありふれたものでの比べっこしかできないような、そしてその比べっこには低賃金の労働で稼がれた微々たる金(金額的には微々たるものではないが、上流の就職先の給与に比べると絶対的に少ない(バイトだったりするため)ため、消費の総額が少ない(よくある、入った金をすぐに賭けや服に使うなど)、あるいは一個一個の消費が少ない(食事が粗末なもの(99ショップの品など)になるなど)など)がすぐに流入するという、虚脱感を感じるような窒息しそうな世界です。

たとえば、「資本主義的パーソナリティー」(金に絶対的な価値をおく性格)や「市場的性格」(自分を商品(経済的価値の具合)として見なす性格)といったものも<経済性>の問題の一つで、高校生あたりの層を取り込む労働状態(バイト)を見るとこの資本主義的パーソナリティーのひどさが顕著です。たとえば、「これはビジネスなんだ」という流行文句で、金をやってるんだからお前(雇用者employee)は俺(雇い主employer)の道具・駒・しもべなんだ、のように言ったりあるいは思っているためにひどい暴言を吐いたりとか、あるいは親などがまず介入してこないことをいいことに(なんで親かというと、高校生は本当の労働者(職業としての労働者)ではないわけですから、親の助けなしに法的措置を執るということは一般的には難しいわけです)、雇用始めの時の条件を勝手に変えたり、勝手な理由をつけて賃金を下げたり、労働時間に対して適当なだけの給料を与えなかったりなど、本当にむちゃくちゃなところはむちゃくちゃで、やりたい放題です(もちろんちゃんとしているところもたくさんありますが…)。こういう社会風潮を反映してか、一般雇用でも「市場的性格」が強くなって(現代人はもとから多少の「市場的性格」は持っています)、自分をそういうふうにしかはかれなくなってしまう人がたくさんいます(今企業のうつやACに関しての対策は重要で、父親の勤めていた企業でもうつで半年とか一年近く欠勤してる人が2人くらいいたそうです。この企業は大企業だったために1年間は給料が出て、もう1年は給料は出ないけれど解雇はされないという制度がありましたが、それでも二度と出世はできないし、中小企業だったらこんな社員を抱えとく余裕はありませんから即解雇でしょう)。そして、<価値形態の統一性>のために金が必要だからと若い労働源(高校生など)がまた自ら労働のために時間を費やし、余計にこういった社会が固定(再生産)されていくというスパイラルです。

別に僕は、誰が低賃金で働こうが、実質的に格差ができようが、なんだっていいんですが、そういう意味の分からない合理性にも欠ける多様性のない価値形態の中で良いとされることを強要されるような世界や、あるいは強要してくるもしくはそういった明らかにおかしな<生きづらい世界>に気づかない鈍感な社会や偉そうな大人や同年代の奴らにはヘドが出るし、唾棄するし、従うつもりはないし全力で抗いますね!

MIYADAI.com Blogの記事に僕が言わんとすることと似てる部分を見つけたので引用します。

宮台 解離でなければ軽躁軽鬱。解離とは、場面によって違った自己を演じること。軽躁軽鬱とは、フェスティバル的に盛り上がったかと思うと退却して落ち込むという繰り返し。燃え尽きる前に〈システム〉が予め設えたリゾートで「〈世界〉との接触」が与えられる。そういう風に生きる人間ってマトモでしょうか。〈システム〉はウマク生きることを要求します。〈生活世界〉はマトモに生きることを要求します。近代過渡期では後者という前提があって前者がありました。近代成熟期には〈システム〉が全域化して〈生活世界〉を覆いますからマトモに生きることは要求されなくなります。それどころかマトモであろうとするとキツくなる。僕は「ウマク生きることとマトモに生きることの乖離」と言います。
そこに平等主義が変な形で出て来るんです。左翼崩れの格差批判論者が「万人に自己実現の夢を与えよ!」「希望格差を無くせ!」と叫びます。教養のある人間なら「おいおい、それってポストフォード主義そのものじゃないか」って思うはずです。「消費主義的パラダイム」に基づいて万人に「仕事での自己実現」を目指すことを説くのかよ。そうやってエリート階層をリクルーティングした後、結局大半の人には「仕事での自己実現」が無理だと分かるから、それならばとコンビニ労働で得られたちっぽけなカネで可能な「消費での自己実現」(萠え!)を説くのかよ(笑)。
希望格差の階層的固定の一部は公正原則的にマズイ。地域的固定の一部も同じくマズイ。そこではリソースの政治的再配分や保護が必要です。でも最初から或いは早い時期から「消費主義的パラダイム」が支える自己実現ゲームから「降りる」者がいるのは、ポストフォード主義的オブセッションから自由だという意味で望ましい。その意味で、格差それ自体の解消にオブセッシブに目くじらを立てるより、ハイマート(帰る場所)として機能する〈生活世界〉を再構築してオブセッションフリーな感情的安全を確保することが、大切です。格差問題も一部の階級文化や地域文化の保全を含めた〈生活世界〉保全の観点から議論されるべきです。格差と聞けばいきり立つ無教養な「格差馬鹿」は死んだ方がいいね(笑)。

「承前5 – MIYADAI.com Blog」

これを見ると、<価値形態の統一性>というのは階級的に起こっているというより(だけではなく)、社会全体が社会(<システム>との区別がよく分からないから「社会」とした)が要求する生き方(機能)を強要されているというそのこと自体を現しているのかもしれない。

1 comment to 価値形態の統一性と経済性への危惧

  • [...] このときの共産主義者や革命主義者のように実際に謀叛を起こしてどうにかするべきかどうかは置いといて、「価値形態の統一性と経済性への危惧」でも言ったように、この文の「人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時」のような、何も深く考えずにただその場の雰囲気に流されて<大きなもの>に従う国民にだけはなるべきではないとは思いますね。この文にある「形式的」というのと、僕の文の「機械的」というのとはおそらく同じものを言おうとしたものだと思います。 [...]

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