他人を思うこと

昨日NHKの『あの人に会いたい』で、噺家の桂枝雀(かつら しじゃく)が「自分を思うことが 自分を滅ぼすこと。人を思うことが 本当は 自分を思うこと。」と言っているのを見て、本当にそうだ、と思った。彼は33歳の時にひどい鬱状態に陥り、そのときのことを振り返って「狭く狭くなっていった」と語っている。そして、「これを言葉で説明するのは難しいんですが」「自分を思うことが自分を滅ぼすこと、人を思うことが本当は自分を思うことなんですね」と語っていた。

僕も鬱というか、すごく観念的になった時期があり(今もないわけではないが)、やはりその後にすごく「人に感謝する」という意味が分かった。「他人(ひと)がいないと生きられない」という意味がすごくclearに実感として分かったのだ。枝雀が「言葉で説明するのは難しい」といっているように、確かにこれを言葉で説明するのは難しい。実際不可能ではないだろうが、その「意味」──詰まるところ人がいないと自分はダメなんだという、その「ダメ」なシチュエーションに本当に陥ったことがない人は、結局真の意味では他人の重要性は分からない。そういった意味では、鬱や観念的な状態(あるいは引きこもりなど)になることは一つのチャンスだ、と思う。

これは聖書の「知恵の樹の実」にも少し似てる。食べる前の楽園の生活の方が幸せだったかもしれないが、食べて善悪を知ってしまったあとの世界の方がずっと、<生>の強度があると僕は思う。僕は、「無知で幸せ」より、「理解して濃密」な方が、たとえ危険があったとしても良い。それに、この世界にはそんな理想的な楽園(エデン)はないのだから、無知こそ危険なのだ。

知ってしまったあとの世界から、知らなかった頃の世界(自分)を見ると、本当に「なんでそんなところで満足して平和に暮らせているんだ!?」と恥ずかしくなって、そういう自分に耐えられない。この場合も、鬱(すごく観念的な状態)になることで他人と自分との関係性──どういうことが自分にはできて、どういうところは自分が補ってもらわなければならないのか──が明確に見えるようになったから、本当に気が狂うかと思うほど過酷だったけど、濃密だったし僕はそういう経験ができて良かった。鬱になれとは言わないが、それで本当に人を人として見る、他人を他人として認められるようになるのなら、その方がずっと良いことなんじゃないかと思う。

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