ちょっと驚いた
ちょっと驚いた。
伊藤整の『典子の生きかた』という本を読んでるんだけど、この本で紹介されているというか、主人公でありテーマそのものである速雄と典子のやりとりや感情などが、あまりに僕が考えてきたことと重なっている。何に驚くって、僕が最近自分のこととして自分自分って考えていた時期からようやく少し落ち着いて、それは未だに僕の中では大きな問題ではあるのだけれどももう少し客観的に距離を置いて見られるようになった考え方、見られるようになったことで手に入れた捉え方をほぼそのまま書いてあるのだ。たとえば引用するなら次のようなところがある。他にも感情に訴える部分は随所にある。
「同じ年位の娘たちは、僕たちを待っててくれやしない。僕たちは、まだまだ世間に出ないでいるけど、娘たちは、そうだろう、すぐに娘の限界ってようなものが来てしまう。そこまで来ると、どんどん嫁に行ってしまう。だから、きっと、僕たちが一緒に同じ村で育って、同じような感情を持ち合っていた、つまり僕たち男の子にとってはとりかえようのない女は、僕たちとは一緒にならないようになっている。」
『典子の生きかた』
そしてもうひとつは、典子が僕の知ってるある女の子にものすごくかぶるのだ。それもかなり細かいところまで。もちろん時代設定がちがうから変な部分もたくさんあるが、だいたいおおよその輪郭はかさなる。そして、もう言ってしまったが、これが書かれたのは一時代前(僕からすれば)、昭和40年である、ということ。つまり、僕が今感じているある種のどうしようもなさと、当時(かあるいはそれより少し前)の著者が想定した・捉えたどうしようもなさというのは、同じものでないにせよ、非常に似たある種のどうしようもなさとして彼らに、僕らに共有されるものであろう、と思う。もちろんそれを突き詰めて考えていけば、社会の構造が、雇用条件が、システムの必要とする形で性愛は形成されるから、自分の実存と交換可能性が…、のように言えるわけだが、僕がいま言いたいのはそういうことじゃくて、そのきもち・感情の問題だ。そのどうしようもなさというものに付随する得も言われぬ感情が、様々なところで通底しているように思われてならない。そしてそれは、現在のさまざまな部分で、という意味だけでなく、少なくとも35年という時は超えて通ずる、ある種の感情、僕らを束縛する不条理、とも呼べるものなのではないか、と思うわけである。
とりあえずまだ途中だから、まずは最後まで読んでみよう。それからまた書きたいことがあれば書く。
