理想・理念――ふと現状を顧みて
思春期の若い頃は観念的なことや理想・理念に燃えて色々なことを否定してみたり、思い悩んでみたりする。でも結局は身体的なマジックに踊らされて*1、もっと生きることに特化したように生きるようになる。それは全然間違ったことじゃない。でもすごく不思議な気持ちになる。
当時正しいと思っていたこと(正しいとされていたこと)をほとんどの人がやっていないということを考えれば詭弁といえば詭弁だ。ただ今は何の意味もないことでも、当時そういうことを信じてやる、考えるということには意味があるのかもしれない。個人の内なる光となって、与えられた規則としてではなく、柔軟な・生きていく力として、希望*2 として生きていくものなのかもしれない。
ただ、そこのところをやり過ごせるか過ごせないかで、大人になれるかなれないかが決まってくるんだろう。簡単にやり過ごせる人はすぐに大人になれるし、簡単にやり過ごせない人はなかなか大人になれない。
それをやり過ごせられる(自分で認められる)時っていうのは、少なからず社会(周り)から認められたときなんじゃいかと思うんだけど、その認められなくちゃいけない度合いっていうのは人それぞれで、それが極端に高い人は苦しむんじゃないかなぁと思う。でもそれは裏を返せば自分の自信の無さか、現状(自分自身も含めて)に満足していないっていう証拠でもある。
そう思うとすごく弱気になるけど、それは何かに燃え続けられるってことだから、変わっていけるチャンスがあるってことだ。それが生長とは限らない。ただ、僕は多様性(diversity)とはどれだけ変化できるか――どれだけ変化を体験できるか――だと思っているから、そういう意味ではまだチャンスがあるということもできる。
*1 決して悪い意味ではない
*2 希望を実現(創造)していく力
