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	<title>√takeru （タケルのねっこ） &#187; 社会</title>
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	<description>日々思ったことを掲載予定♪ インターネット、パソコン関連の記事も掲載♪</description>
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		<title>世界の雑記帳：アイスランド首相、同性結婚した世界初の国家首脳に &#8211; 毎日ｊｐ(毎日新聞)</title>
		<link>http://takeru.geomexca.org/2010/06/29/%e4%b8%96%e7%95%8c%e3%81%ae%e9%9b%91%e8%a8%98%e5%b8%b3%ef%bc%9a%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%89%e9%a6%96%e7%9b%b8%e3%80%81%e5%90%8c%e6%80%a7%e7%b5%90%e5%a9%9a%e3%81%97%e3%81%9f/</link>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 11:33:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>TAKERU(admin)</dc:creator>
				<category><![CDATA[思ったこと]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>

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		<description><![CDATA[世界の雑記帳：アイスランド首相、同性結婚した世界初の国家首脳に &#8211; 毎日ｊｐ(毎日新聞).
いやー、これは素晴らしいことだよね
まあ、素晴らしいかどうかはおいといてとりあえずすごいことではあるよね
僕はいま社 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://mainichi.jp/select/world/newsinbrief/news/20100629reu00m030005000c.html">世界の雑記帳：アイスランド首相、同性結婚した世界初の国家首脳に &#8211; 毎日ｊｐ(毎日新聞)</a>.</p>
<p>いやー、これは素晴らしいことだよね</p>
<p>まあ、素晴らしいかどうかはおいといてとりあえずすごいことではあるよね</p>
<p>僕はいま社会科学ゼミでジェンダーについて少し勉強したんだけど、この同性愛と対をなす異性愛について「異性愛規範」っていうのがあって、これを勉強するとねーとりあえず同性愛異性愛についての価値観がひっくりかえされるよねー</p>
<p>とにかくこういう寛容さとか自由度っていうのはすごく重要で僕は同性愛自体はそんなにwelcomって感じじゃないけどこれは素晴らしいと思う</p>
]]></content:encoded>
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		<title>イサム・ノグチ &#8211; Wikipedia</title>
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		<pubDate>Thu, 19 Nov 2009 01:02:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>TAKERU(admin)</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会]]></category>

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		<description><![CDATA[イサム・ノグチ &#8211; Wikipedia.
先日Googleのロゴが左の画像になってたから今日は何かなと思って見てみたらイサム・ノグチという人だった。僕自身はあまり芸術には興味はないんだけど（本当はものすごくあ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%B0%E3%83%81">イサム・ノグチ &#8211; Wikipedia</a>.</p>
<p><img class="alignleft size-full wp-image-1104" title="noguchi09-hp" src="http://takeru.geomexca.org/wp-content/uploads/2009/11/noguchi09-hp.gif" alt="noguchi09-hp" width="384" height="138" />先日Googleのロゴが左の画像になってたから今日は何かなと思って見てみたらイサム・ノグチという人だった。僕自身はあまり芸術には興味はないんだけど（本当はものすごくあるんだが、実際に芸術に携わってる姉貴やその周りの人たちの意見がいつも正しいということになり、僕の考えはよく否定されるので、僕はあまり好きではない、ということにしている。へんな話だけどね）姉貴が芸術関連のことをやってるから何となくこういうのは見てしまう。</p>
<p>ところで、Wikipediaのページを見てみると、この人は日本人でありアメリカ人である（日系アメリカ人）ということでかなり苦労しているように見える。</p>
<blockquote><p>「しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側の<a title="スパイ" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4">スパイ</a>との噂がたち、日本人社会から冷遇された為…」</p></blockquote>
<blockquote><p>「同年、<a title="広島平和記念公園" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%85%AC%E5%9C%92">広島平和記念公園</a>のモニュメント（慰霊碑）にノグチのデザインが選ばれたが、<a title="原子爆弾" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE">原爆</a>を落としたアメリカの人間であるとの理由で選考に外れた。」</p></blockquote>
<blockquote><p>「彼は後年、アメリカ大統領の<a title="慰霊碑" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91">慰霊碑</a>を設計したこともあるが、こちらは日系であるとの理由で却下された。」</p></blockquote>
<p>など。（以上すべて『Wikipedia』）</p>
<p>僕はこれらの感情論を否定するつもりはないが、ある人がボスニア＝ヘルツェゴヴィナ紛争で娘を失った人の講演を聴きに行ったときのことを話してくれて、思ったことがある。</p>
<p>それによると、青年期をどういう共同母体で育ったか、ということが所属意識をはじめとする個人のバックボーン（ゆえにのちにはなかなか変え難い部分）に非常に影響するらしい。まあ経験的に考えてそうだろうということは分かるが具体例で出されないとなかなか明確に意識することはできない。この人の話では、実は「クロアチア人なんて殺っちまえ」と言うのは（当時）若い人（20代前後？）と5、60過ぎの人に集まっていてその中間くらいの3、40代の人たちはそれらの人に比べるとそういった意識が少なく折衷派だったらしい。理由は3、40代の人たちは対ナチス・ドイツとしてあの一体がひとつに固まらざるを得なかった時期から冷戦期という常に結束を必要とした時期に青年期を過ごしたからだ。だから、冷戦がもう一息長引けばあの一体は一つに固まっていたかもしれないという（まぁ、あくまで一意見で、複雑な宗教問題とかもあるから僕は懐疑的だが）</p>
<p>「アメリカ人」、「日本人」、「セルビア人」、「クロアチア人」、「イスラム民族」、…ということがよく紛争の原因になっているが、ほんとくだらいな～と思う。しかし、今回の例ではセルビア人とクロアチア人ということだったが、僕らも日常の中で客観的に見るととんでもない固定観念や意識構造にとらわれ、巻き込まれている。じゃあそんなのやめちゃえばいいのに、と思うがそう言い始めるとキリがない。多文化主義と統一的価値観や自民族のアイデンティティーを持たないこととは違う。ある文章で</p>
<blockquote><p>&#8220;Multilingualism is not only increasingly common, however&#8211;it also affects our cognitive life. Recent research in developmental psychology shows that bilingual children are quicker to develop an ability to understand the mental states of others. （中略） Bilingual children, interestingly, succeed in what is known in developmental psychology as the false-belief task (distinguishing between the reality and what someone believes to be the case) several months earlier than do those who are monolingual. A likely interpretation of these findings is that bilingual children have a more fine-grained ability to understand their social environment and, in particular, a greater awareness that different people may represent reality in different ways.<br />
I believe that European multilingualism will help produce a new generation of children who are cognitively more flexible, who will have integrated their mixed cultural background into their own identity and cognition. It will become impossible for European educational institutions to impose upon such students their local &#8217;sacred&#8217; values belonging to a &#8216;higher civilization&#8217; &#8212; greater bravery, spiritual superiority, or what have you. This will help new generations to get rid of &#8216;unreal loyalties&#8217; to nation, flag, or local customs and manners. （中略）<br />
All this may be wishful thinking, but I can&#8217;t help thinking that being multilingual is the best and cheapest antidote to cultural intolerance, as well as a way of going beyond the empty label of multiculturalism by experiencing a plural culture from within. And, of course, this is not just a European issue.&#8221;</p>
<p style="text-align: right;">出典不明、2009年度第3回記述模試（河合）</p>
</blockquote>
<p>といったようなものがある。この文章だけでは分からないのだが、まずbilingual childrenが幼児期に他の幼児に比べて早く優れたtest-performanceを示すこととその後の能力との連関は不明で、上記のように青年期が人格形成に重要であるように、仮に幼児期がもっと低次なところで言語などの影響を受けやすい時期であるとしたときの話だが、それがbest wayか。僕はこの人の意見におおむね賛成だが（&#8221;This will help new generations to get rid of &#8216;unreal loyalties&#8217; to nation, flag, or local customs and manners.&#8221;の部分や、もし本当なら&#8221;bilingual children have a more fine-grained ability to understand their social environment&#8221;の部分など）、僕が言いたいのはこういった態度がとれるのも（こういった態度が意味のあるものとして機能するのも）ある固定的な価値観があるからだ、ということなのだ。たしかに個を保って独自性を保持したまま他文化を受け入れリスペクトするなんてどだい無理な話だ。しかし、だからといって幼少期にみんな複数の文化を経験してそういった問題を乗り越えられるかははなはだ疑問だ。つまり上にも書いたように、それを可能にしているのは現行の価値構造や状況があるからで、（小さいときから多文化の中で生きていたために）みんなそれぞれの良いところを知っているのだからそれを尊重し合いましょうじゃあその文化を貫く母体がいない。その文化を貫く母体こそがその文化のエッセンス（本質）を伝える本体であるのに。近代的といえばすごく近代的で、僕はそういう意味ですごく賛成なのだが、たぶん僕らに課せられてるのはそういったことじゃあない。きっと、なんでもないことを、人を、状況を認められる、許せるってことなのだろう、たぶん。最後にすごく抽象的になってしまったが（笑）</p>
<p>ただ、それぞれの文化が母体を持った環境の中で、多文化を俯瞰できる、あるいは多文化の貫くもの・エッセンス（ということはその文化の成員の信条や価値観（感情））というものを察知できる、あるいは知っているということはものすごく価値のあることで、それがmultilingualな人に多く見られるのならそういった環境や人々は必要だというのは僕も思うことである。</p>
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		<title>良心</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jan 2009 18:04:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>TAKERU(admin)</dc:creator>
				<category><![CDATA[今日の言葉・名文]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>
		<category><![CDATA[宮台]]></category>

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		<description><![CDATA[良心というものは、それぞれ個人の中にあって、社会がそれ自体を保持するために発展させてきた法則の番人なのだと、と私は思う。われわれがその法則を破らないように見張るために配置された、われわれの心の中の警官である。自我という中 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<blockquote><p>良心というものは、それぞれ個人の中にあって、社会がそれ自体を保持するために発展させてきた法則の番人なのだと、と私は思う。われわれがその法則を破らないように見張るために配置された、われわれの心の中の警官である。自我という中央のとりでに座をしめたスパイである。人が仲間から是認されたいという欲望は、ひじょうに強く、人から非難されるのをこわがる気持ちは、ひじょうに激しく、それだから、自分で敵を門の中へおびき入れてしまっているのだ。</p>
<p style="text-align: right;">『月と六ペンス』（モーム）</p>
</blockquote>
<p>（『一日一文 &#8211; 英知の言葉』1月25日分）</p>
<p>これと関係のある文章を昔書いたので載せましょう。</p>
<blockquote><p>あることががいけないことだとされる共同体社会において、そのことが本人にとっての快楽に繋がり、また本人の意識においてそのいけないことが行動を規制するほどの効力を有さないとき、その共同体社会にそのいけないとされることをやったということが知られないのならば、そのあることは個人の精神のうちにおいてはいけないことではないのであり、よって共同体社会における規範が個人に対して永続的に規範たる根本義を認識させるようなものでないならば、その行為は事実上規制される正当な理由はなく事実上規制できない。（2007/10/02(Tue)）</p></blockquote>
<p>ちなみに、宮台によれば＜道徳＞と＜良心＞とは区別され、＜道徳＞とは「世間の監視の目」、＜良心＞とは多くの宗教に見られるような「個人の内部にある善悪の判断基準」（こっちは曖昧＾＾；）だそうです。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>価値形態の統一性と経済性への危惧</title>
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		<pubDate>Sat, 24 Jan 2009 21:09:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>TAKERU(admin)</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会]]></category>
		<category><![CDATA[宮台]]></category>
		<category><![CDATA[恋愛]]></category>
		<category><![CDATA[成熟社会]]></category>
		<category><![CDATA[近代と現代]]></category>

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		<description><![CDATA[（本当はこの記事をすぐに書くつもりだったので、「メディア」を更新する形で記事を載せようと思っていたんですが、長くなり過ぎて存外時間がかかってしまったため、「メディア」の更新としてではなくて、新しい記事としてアップすること [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>（本当はこの記事をすぐに書くつもりだったので、「<a href="http://takeru.geomexca.org/2009/01/10/p=56/">メディア</a>」を更新する形で記事を載せようと思っていたんですが、長くなり過ぎて存外時間がかかってしまったため、「メディア」の更新としてではなくて、新しい記事としてアップすることにしました。）</p>
<p><a href="http://takeru.geomexca.org/2009/01/10/p=56/">承前</a></p>
<p>僕はこれに関して、人間の価値形態の統一性と経済性についての問題を危惧せざるを得ません。簡単に言ってしまえば、人間っぽさの欠落です。</p>
<p>たとえばおいしいものを食べることが目的である場合、おいしいお店に行ったり、家で料理をしたり、食材を勉強してみたりと、金だけではまかなえない部分──キノコを採りに行くとか、パスタのゆでかげんに神経を注ぐとかいう＜手間＞の部分──があります。ところが、おいしいお店に行くこと自体が目的化すると、あるいはもっとひどければ外で食べること自体が目的化すると、おいしいお店を探すとか実際にそのお店に足を運ぶといった手間はありますが、基本的にすべてお金でまかなえる行動になります。もちろんグルメな人で、それを生き甲斐にしてる人もいますが、本当にそのことを生き甲斐にしてる人はそのことに一般的な人とは違う＜手間＞を必ずかけています。重要なのは、お金のかかる消費活動になっているということではなく、お金だけしかかからない（かけない）消費活動になっていることと、行動自体が非常に機械的な単調なものになっているところです。注目して欲しいのが、＜手間＞あるいは＜幅＞の部分を、金が媒介して単純化させているという構造です。これが何故危険なのか。</p>
<p>個人個人が本当に望むもの、あるいは継続的に望むものが金だけでまかなえるなら、人間は基本的に経済活動以外をする必要がありません。先の例で言えば、本当に外食ばかりの生活で満足できるなら、その人にとっては、食生活に関しての＜手間＞や＜幅＞の部分や、食事における他の楽しみ──家族との団らんや、たまにあるからこその友人との濃密な時間──の部分が抜け落ちます（僕の経験上、外食というのはプライベート空間でないためか、回数が無駄に多くなると新鮮さや特別さが希薄化して、本当に濃密な団らんや、更に行けば快適な時間でさえなくなります）。僕がどういった層の人間を言っているのかは想像してもらいたいのですが、ようするに「食（事）」に多くのことを求めません。そして必要なのはお金と、ダラダラとつきあう仲間だけです。裏を返せば、金とそういったつきあいだけは必要です。</p>
<p>今言ったのは食事に関しての例ですが、こういったことは他のたくさんの場面でも起きています。たとえば恋愛で、「本当に分かり合える人なら一人だっていい、その人にしか好かれなくていい、その人だけ愛せればいい」と思っていたとしても、たくさんの女にモテる（ストックしてる、ヤってる）やつの方がいいという価値基準しかその周辺の人々に共有されないと（そういったことしか望まない人ばかりになると）、自分がいくらそう思っていても、もうそういうふうにはできないわけです（何故なら恋愛では「相手」も必要（「承認されること」が必要）だからです）。他にも、人間関係でもそうだし、もっと言ってしまえば生き方そのものにさえもこういった現象が影を落としています。つまり個々の価値基準でオリジナルにいろいろなものの価値をはかっていたのが、段々その価値基準が個人の内部から外部のイメジへと移り変わり、個人個人が主体的にものごとを判断したり選択したりしなくなっているということです。うーん、ここが難しいんですが、本人は主体性があるつもりなのですが見る人が見ると主体性がないというか、安易というか、機械的に見えるというか、陳腐なもので満足しているように見えます。もっと切り込んだ言い方をすれば、思考をともなっていない行動と捉えることができる、ということです。これが全体あるいは大規模で起きると（まぁ実際に起きてるわけですが）、こういったすごく一辺倒な価値形態（イメジ）が支配的になり、イメジばかりが先行した、本当の欲求が満たされないような機械的な希薄なせかいがアタリマエになり、そういうせかいに言い得ぬ違和感を感じる人やそんなことくだらないと思う人も有無を言わさずそういった波に飲み込まれていく現状があります。そうやってある一つの指標やイメジに傾倒していくのはとても危険なことなのです。</p>
<p>本来、食事の場合に限らず、「偶然性」や「唯一性」、あるいは＜手間＞といった部分（濃密さ）──金とは違う指標（価値形態）、個人が内部に持つ指標で量られる部分──を望むから（先の例で言えば、家族との食事における団らんや、たまにあるからこその友人との濃密な時間を本気で希求するから）そこに多様性diversityやcomplexity（生きがいと思えるような時間）が生まれるのに、それらを望まない、あるいはそういった陳腐なもので満足してしまうため、全体的に希薄な、記号的なせかいになるわけです。ある意味濃密さを知らないのだから、かわいそうといえばかわいそうなのですが、そこに本来多数派でなければならない濃密さを知る人々（本来はこっちが普通）も巻き込まれる、それも少数派（弱者）として押しやられるところに悲劇性と不条理があります。</p>
<p>もう少しつっこんだ言い方をすれば、価値形態の統一性への危惧とは、都合のいい一つの価値形態でこれが良いとされることを強要される世界への危惧です。先進国は資本主義の性質からいって大量消費社会になっていますが、大量消費には二種類あります。一つは食料などの生活必需品が大量生産され大量消費される状態。もう一つは、生活には直接的に関係のない、もっぱら経済的な理由により大量生産され大量消費されるポータブル音楽プレイヤーなどの状態です。今前者の必須である消費を＜生活的消費＞、後者の自由な消費を＜思想的消費＞とすると、＜思想的消費＞の場合、純粋な必要欲求だけではなくある種のイメジ（幻影）──思想を成り立たせる（形成する）基盤──がないと成り立ちません。つまりメディアによる価値観の擦り込みなどが必要になってきます。これが一過性の単発的なものなら問題ないのですが、こういったシステムの中では次第にそういった宣伝なしである統一的な価値観がメディアや階級意識（≒階級闘争）によって生まれてきます。僕はこういった世界に筆舌に尽くしがたい強迫観念的な恐怖感があるわけです。つまり、この自由であるはずの＜思想的消費＞が実質的に「自由」でなくなるわけです。すなわち「選択的」になるわけです。</p>
<p>これらのことは多少危険な言い方をすれば文化的・経済的に高いレベルにない人達が力を持ち始めているということです。そしてこれらは連鎖的に起きています。しかし、これらは『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%87%8E%E9%83%8E%E3%81%A9%E3%82%82-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BBE-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%B9/dp/4480082964/ref=sr_1_1?ie=UTF8&amp;s=books&amp;qid=1232817696&amp;sr=8-1">ハマータウンの野郎ども</a>』で書かれているように、階級的なものを再生産するように機能している、換言すれば日本にも階級ができはじめているということかもしれないということです（ちなみに僕は『ハマータウンの野郎ども』を読んだことはありません）。もしそうなら、力を持っているというのはあくまでその階級の中での話で、社会的に見たら決して力を持っていない（上位にいない）という可能性があります。これは何を表しているかというと、「階級」というものが閉鎖的（排他的、敵対的）であり、容易に上下はしないということです。これは経済性への危惧にも繋がります。</p>
<p>経済性への危惧とは、＜価値形態の統一性＞が金を一つの媒介（軸）として起こっているということです。上記のような機械的な世界（特定の人にとってものすごく＜生きづらい世界＞）で評価されるためには何故か金が必要という場合が多くなります（あるいは反規範的（？））。つまりこれが、上の『ハマータウンの野郎ども』で提示された階級（労働階級）を再生産する構図そのものです。せまい範囲の世界（地域的に狭いという意味ではなく、質的に深くない・視野的にせまいという意味）で、せいぜいありふれたものでの比べっこしかできないような、そしてその比べっこには低賃金の労働で稼がれた微々たる金（金額的には微々たるものではないが、上流の就職先の給与に比べると絶対的に少ない（バイトだったりするため）ため、消費の総額が少ない（よくある、入った金をすぐに賭けや服に使うなど）、あるいは一個一個の消費が少ない（食事が粗末なもの（99ショップの品など）になるなど）など）がすぐに流入するという、虚脱感を感じるような窒息しそうな世界です。</p>
<p>たとえば、「資本主義的パーソナリティー」（金に絶対的な価値をおく性格）や「市場的性格」（自分を商品（経済的価値の具合）として見なす性格）といったものも＜経済性＞の問題の一つで、高校生あたりの層を取り込む労働状態（バイト）を見るとこの資本主義的パーソナリティーのひどさが顕著です。たとえば、「これはビジネスなんだ」という流行文句で、金をやってるんだからお前（雇用者employee）は俺（雇い主employer）の道具・駒・しもべなんだ、のように言ったりあるいは思っているためにひどい暴言を吐いたりとか、あるいは親などがまず介入してこないことをいいことに（なんで親かというと、高校生は本当の労働者（職業としての労働者）ではないわけですから、親の助けなしに法的措置を執るということは一般的には難しいわけです）、雇用始めの時の条件を勝手に変えたり、勝手な理由をつけて賃金を下げたり、労働時間に対して適当なだけの給料を与えなかったりなど、本当にむちゃくちゃなところはむちゃくちゃで、やりたい放題です（もちろんちゃんとしているところもたくさんありますが…）。こういう社会風潮を反映してか、一般雇用でも「市場的性格」が強くなって（現代人はもとから多少の「市場的性格」は持っています）、自分をそういうふうにしかはかれなくなってしまう人がたくさんいます（今企業のうつやACに関しての対策は重要で、父親の勤めていた企業でもうつで半年とか一年近く欠勤してる人が2人くらいいたそうです。この企業は大企業だったために1年間は給料が出て、もう1年は給料は出ないけれど解雇はされないという制度がありましたが、それでも二度と出世はできないし、中小企業だったらこんな社員を抱えとく余裕はありませんから即解雇でしょう）。そして、＜価値形態の統一性＞のために金が必要だからと若い労働源（高校生など）がまた自ら労働のために時間を費やし、余計にこういった社会が固定（再生産）されていくというスパイラルです。</p>
<p>別に僕は、誰が低賃金で働こうが、実質的に格差ができようが、なんだっていいんですが、そういう意味の分からない合理性にも欠ける多様性のない価値形態の中で良いとされることを強要されるような世界や、あるいは強要してくるもしくはそういった明らかにおかしな＜生きづらい世界＞に気づかない鈍感な社会や偉そうな大人や同年代の奴らにはヘドが出るし、唾棄するし、従うつもりはないし全力で抗いますね！</p>
<p><a href="http://www.miyadai.com/index.php?itemid=550">MIYADAI.com Blogの記事</a>に僕が言わんとすることと似てる部分を見つけたので引用します。</p>
<blockquote><p>宮台　解離でなければ軽躁軽鬱。解離とは、場面によって違った自己を演じること。軽躁軽鬱とは、フェスティバル的に盛り上がったかと思うと退却して落ち込むという繰り返し。燃え尽きる前に〈システム〉が予め設えたリゾートで「〈世界〉との接触」が与えられる。そういう風に生きる人間ってマトモでしょうか。〈システム〉はウマク生きることを要求します。〈生活世界〉はマトモに生きることを要求します。近代過渡期では後者という前提があって前者がありました。近代成熟期には〈システム〉が全域化して〈生活世界〉を覆いますからマトモに生きることは要求されなくなります。それどころかマトモであろうとするとキツくなる。僕は「ウマク生きることとマトモに生きることの乖離」と言います。<br />
そこに平等主義が変な形で出て来るんです。左翼崩れの格差批判論者が「万人に自己実現の夢を与えよ！」「希望格差を無くせ！」と叫びます。教養のある人間なら「おいおい、それってポストフォード主義そのものじゃないか」って思うはずです。「消費主義的パラダイム」に基づいて万人に「仕事での自己実現」を目指すことを説くのかよ。そうやってエリート階層をリクルーティングした後、結局大半の人には「仕事での自己実現」が無理だと分かるから、それならばとコンビニ労働で得られたちっぽけなカネで可能な「消費での自己実現」（萠え！）を説くのかよ（笑）。<br />
希望格差の階層的固定の一部は公正原則的にマズイ。地域的固定の一部も同じくマズイ。そこではリソースの政治的再配分や保護が必要です。でも最初から或いは早い時期から「消費主義的パラダイム」が支える自己実現ゲームから「降りる」者がいるのは、ポストフォード主義的オブセッションから自由だという意味で望ましい。その意味で、格差それ自体の解消にオブセッシブに目くじらを立てるより、ハイマート（帰る場所）として機能する〈生活世界〉を再構築してオブセッションフリーな感情的安全を確保することが、大切です。格差問題も一部の階級文化や地域文化の保全を含めた〈生活世界〉保全の観点から議論されるべきです。格差と聞けばいきり立つ無教養な「格差馬鹿」は死んだ方がいいね（笑）。</p>
<p style="text-align: right;">「承前５ &#8211; MIYADAI.com Blog」</p>
</blockquote>
<p>これを見ると、＜価値形態の統一性＞というのは階級的に起こっているというより（だけではなく）、社会全体が社会（＜システム＞との区別がよく分からないから「社会」とした）が要求する生き方（機能）を強要されているというそのこと自体を現しているのかもしれない。</p>
]]></content:encoded>
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